カカオの演劇記録

演劇体験に関する記録です。本とかも紹介していけたらと思います。

表現の危険性について

目次

  1. 表現とは
  2. こころとは
  3. 表現の再定義
  4. 臨床心理学的視点からみた表現について
  5. 表現の危険性について①
  6. 表現の危険性について②
  7. あとがき

 

1.表現とは

表現とはなんでしょうか。

表現という言葉を(ネットの広辞苑にて)調べてみると

 

人間の内面にある思想・感情・感覚などを客観化し、表情・身振り・言語・音楽・絵画・造形などの外面的な形として表すこと。また、その表したもの

 

と定義付けられています。

 

この定義から、

 

①表現とは、人間の内面にある思想・感情・感覚外面的な形として表す行為であり、また、表した物体であるということ。

 

②表現とは、人間の内面にある思想・感情・感覚が前提におかれているということ。

 

以上の2つの側面がみえます。

 

 

 

私は、人間の内面にある思想・感情・感覚

 

こころ

 

と、言い換えられると思っています。

 

 

その論拠については次です。

 

2.こころとは

こころとはなにか。

 

こちらも広辞苑に記載されている内容の一例を挙げてみましょう

 


「人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用」


①知識・・意志の総体。「からだ」に対する

思慮。おもわく。

気持。心持。

思いやり。なさけ。

⑤情趣を解する感性

望み。こころざし。

特別な考え。裏切り、あるいは晴れない心持。

 

と、このようにあります。

 

内面にある思想・感情・感覚』と、これらのこころの意味合いとを対比させてみますと、

 

 

思想思慮、気持、思いやり、望み、特別な考え

感情感情、気持

感覚感性

 

 

意味合いをもとに、このように言葉の類同を見出すことができます。

 

 

このことが、内面にある思想・感情・感覚こころと言い換えられる、というところの論拠になります。

 

このことを踏まえ、表現という言葉を再定義してみたいと思います。

 

 

3.表現の再定義

上記の内容を踏まえ、表現という言葉を再定義してみます。

 

表現とは、『人間の内面にある思想・感情・感覚などを、すなわち、こころを客観化し、表情・身振り・言語・音楽・絵画・造形などの外面的な形として表すこと。また、その表したもの

 

至ってシンプルですね。

 

もっと言ってしまえば、

 

『表現とは、こころの外在化』でしょうか。

 

 

4.臨床進学的視点からみた表現について

表現には、音楽や絵画、ダンス、執筆、演劇など、とても多くの手法があります。

 

様々な理由から人は表現を行なっていることと思いますが、私は、表現の危険性について、あまり触れられないことに疑問がありました。

 

 

少し臨床心理学的視点で表現について触れます。

 

 

臨床心理学的には、表現はこころを癒すとされており、芸術療法(表現療法)といった治療技法もあるくらいです。

 

芸術療法(表現療法)には、詳しく述べることはここではしませんが、絵画療法や箱庭療法、コラージュ療法、サイコドラマなど様々な技法があります。こどもに用いられるプレイセラピーも表現療法的要素が豊富な治療技法です。

 

 

臨床心理士が、治療や支援において、基本的に武器にしているのは『言葉』です。

 

『言葉』もこころを表現する手法のひとつです。当然のことながら言葉も人を癒します。

 

しかしながら、人間誰しもが言葉をうまく扱えるわけではありません。

 

芸術療法(表現療法)は、そうした言葉をうまく発することができない方や、扱える言葉数に限りがあったり、感じていることや考えていることなどをうまく言い表せない子どもなどが治療・支援の対象となるときに、言葉に代わる、こころを表現する手法として、大きな効果を発揮するのです。

 

 ときに、

 

「遊んだり、箱庭を作ったり、絵を描いたりしているだけで本当に治るのか」

 

そういった疑問が投げかけられることがあります。

 

日本における芸術療法(表現療法)の礎を築いたと言っても過言ではない、日本の有名な精神科医に山中康裕先生がいます。過去に一度講演に伺ったことがあるのですが、とても印象的だった言葉がありました。その言葉を紹介します。

 

先生は

 

「人は本当に表現したいものを表現したときに治る」

 

と、そう仰られました。

 

 

私が大学院生の頃に、ベテランの専属相談員さんに言われた言葉も紹介します。

 

「言葉も遊びも本質は同じだよ」。

 

 

勘のいい方ならもうおわかりかもしれませんね。

 

人は、言葉であれ遊びであれ演技であれなんであれ、本当に表現したいものを表現したときに治るということです(これには、見守り手の存在が不可欠であるということはあらかじめ述べておきたいと思います)。

 

本当に表現したいものを表現するためには、何も言葉でなくてもよいのです。言葉は一つの表現のためのツールなのです。

 

 

 

5 表現の危険性について①

先生のお言葉ですが、裏を返すと、人は表現したいことが表現できないときに、心身に不調をきたす、と言えるでしょう。

 

では、そろそろ本題です。

 

物理要因および環境要因は整っていることを前提とします。

 

人が表現したいことを表現できないときというのはどういうときなのか。そもそも、なぜ、表現できないということが起こりうるのかについて自身の見解を述べていきたいと思います。結論から述べますと、それは、

 

 

表現には危険性が伴うからです。

 

 

では、表現の危険性とはなにか。ひとつは、

 

表現は、受け取った人がいかようにもできてしまうという危険性です。

 

臨床心理士で有名だった河合隼雄先生は、こちらの著書にて、

 

 

 

“治療者がほんとうに耳を傾けて何であれ聴く態度をもっているので、クライアントも「語る」ことになるように、非言語的表現の場合でも、それを受け止める治療者の在り方が極めて重要なのである。”

 

 

と仰られています。このことから、言語的な表現もですが、非言語的な表現も含め、まずそれがなされるか否かは“受け止める側の態度”によって左右されるということがわかります。

 

これは、受け止める側の在り方によって、表現がその場でなされることもあれば、なされないこともあるということです。

 

なにがそうさせるのかと言うと、河合隼雄先生のいう“受け止める側の態度”なのですが、では、その態度とはどういう態度なのか。

 

それは、「受け」てからどうしようとするのか、という構えだと私は考えています。

 

以下の言葉を見てみるとわかりやすいかもしれません。「受け」が含まれる言葉には、

 

 受け取る

 受け流す

 受け返す

 受け渡す

 受け止める

 受け入れる

 受け答える

 

など様々にあります。

 

このように、表現を受けた後というのは、受けた人がいかようにもできてしまうのです。受けた表現を、どうするかによって、相手を傷つけることも癒すこともできるのです。(臨床心理士は、「受け容れ」ます。いわゆる受容というものですね)

 

たとえばですが、表現したいものがある人が、表現したとしても「受け流」されてしまったり、強く「受け返」されたりするのではないかと感じてしまった場合、それによって傷つくことを恐れ、表現をしなくなるでしょう。

 

野球で言えば、ピッチャーは思い切ってストレートを投げようと思っても、キャッチャーがしっかり受け止める気でいてくれなければ、加減した球をなげるかもしれません。本当に投げたい球は投げられないということです。

 

反対に、大きく構えてどんな球でも変化球でも、ミットでバシッと受け止めてくれ、仮に悪送球になってしまっても、身体で必ず止めてくれるキャッチャーであれば、信頼して投げることができますね。

 

このような構えが、相手の表現を引き出す"受け止める側の態度”となるのかもしれないと、思うわけなのです。

 

 

 

 

6 表現の危険性について②

もうひとつ表現の危険性について触れておきます。

 

表現自体が、表現者および受け手となる相手を傷つけてしまう可能性があるということを、説明しておきたいと思います。

 

表現によって表現者自身、そして受け手が心理的・物理的に傷つく場合があります。

 

感情をぶつけてしまい、そのことで言った自分が傷つき、相手も傷つくということは、容易に想像できるかと思われます。暴言暴力なども同様です。

 

臨床心理士としての視点の話しになりますが、上記のことはもちろんですが、セラピストが相手のなす表現に耐えられない場合や、相手が自らの表現に耐えられないと判断した場合などにも制限をかけることがあります。

 

相手の表現を受けて、セラピスト自身がつらさや苦しさから、これ以上聴けない・みていられないという場合、それ相応のつらさや苦しさが、表現者の内にあるということです。相手は日々そのつらさ苦しさを抱えて生きているわけなので、ある程度抱えていられる耐性のようなものが備わっているかもしれません。

 

であるにも拘らず、セラピストが無理に引き受け続けた場合、「受容」という言葉にあるように、人のこころにも容器があるため、その容器の容量を越えてしまい、セラピスト自身がこころの器を崩壊させてしまう可能性もあるのです。こういったことは表現者に罪悪感を抱かせてしまうことになりかねません。

 

これも野球で例えてみると、160キロの球がなげれるピッチャーがいたとしても、その球を受け止められるのはプロのキャッチャーしかいません。プロでない人が安易にキャッチャーを担っても大怪我になるだけであり、それで大怪我をさせてしまったとなれば、ピッチャーはその記憶からもう160キロを投げられなくなるかもしれません。

 

罪悪感の体験を与えてしまっては、表現はなされえなくなり、抱えられたつらさ苦しさは、なお一層その人の深部へと沈殿し、引き上げることさえ困難なものとなってしまうこともあるでしょう。

 

 

また、無理に引き出してしまうことも、セラピストであれば見極めて避けねばなりません。人によって、つらさ苦しさの放出の仕方が異なります。

 

蛇口をひねり、ほどよいところで閉めることができるように表現できる人もいれば、ダムが決壊したかのごとく止めどなく表現が溢れ出てしまい、歯止めが利かなくなる人もいます。

 

後者は表現者も受け止め手もかなり危険であり、受け止め手の引き出し方がきっかけとなって招いてしまうこともあるのです。

 

ダムのたとえのまま危険性について述べますと、ダムには大量の水が貯め込まれています。それが決壊したことによって一気に放出されれば、流れた先の土地は何もかも呑み込まれて破壊されてしまうでしょう。決壊したダムのほうは乾上がり、水は貯まることなく流れていってしまいます。無理な感情の引き出しは、表現者にもその受け手にも、このような大きな損傷を招くのです。

 

感情は人を動かすエネルギーです。そのエネルギーが貯まらないということは、動く力がないということです。喜怒哀楽の感情を、抱え過ぎてはいけませんが、ある程度抱えられるということは実はとても大事なことなのです。

 

 

結論ですが、自分の力量を過信しないということが、表現を受け止める際に大切であり、また、表現者に無理な表現を強いないことも大切なことになります。表現者も表現を受け止める自分自身をも守るために。

 

 

 

7 あとがき

表現を受け止める器を大きくするためにはどうしたらいいのか、とよく考えていました。

 

いまではひとつの答えを持っています。

 

それは知識を蓄え、現実を知り、色々な経験をするということです。

 

知識があれば、無秩序にみえる星もひとつの星座としてみることができるように、心理学や精神医学などの知識があると、人の症状や特徴などを特別変わったことのようにみる目はなくなり、落ち着いて対応することができるようになります。

 

現実を知れば、バリエーションを許容できるようになります。好き嫌いは別として、パイナップル入りの酢豚を知っていれば、ピザにパイナップルが乗っていても、まぁあるかと思えるでしょう。リンゴ入りのポテトサラダがあってもおかしくないと思えたりします。臨床的な話しでいえば、、、と記述しようと思いましたが、例えであっても生々しくて記述しない方がよいかなと思い至りました。

 

ちなみに自分は、幼稚園児くらいのときにだと思うのですが、ディズニーランドで食べたベーコンとパイナップルのピザが美味しすぎて忘れられなくなるという経験があり、以来、塩気のあるもののなかにフルーツが入っていることに何ら違和感を感じたことがありません。

 

経験があれば、その経験に関係した知識がみにつき、現実も知ることができ、同じような経験をした人のことを感覚的にも理解がしやすくなり、言語化し難いところの疎通がよくなります。海外旅行にいくと普段の生活が実にせまいところで起きているんだななんて思えて、深刻に捉えていたことが小さく感じられて、なんて感覚があるのは自分だけですかね。展望台とかに登ったときもそんな感じがありました。

 

 

と、余談でした。そんなこんなで表現の危険性については、いつか記述したいと思っていたのですが、いざ書くとなるとまとまらないまとまらないで、だいぶ記事を暖めていました。

 

盛り込みたいことがまだあるのに盛り込めていないため、消化不良な感じがありますし、ちょっとわかりにくいなって感じるところも多々あるので、ちょこちょこ修正していきたいなと思います。

 

ご精読ありがとうございました。

 

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